新宿小説『気の精』
大介は迷いながら新宿の街を歩いています。
カバンのなかには辞表があります。
ふだん仕事のある日は新宿の西口から出て会社に向かうのですが、
日曜日の今日は東口から出て、新宿の街をブラブラしながら重い気持ちを引きずっていました。
アルタのスクリーンを見ても、ちっとも気が晴れません。
アルタビジョンでは、お笑い芸人がネタを披露していました。
街行く人々はアルタビジョンなど見向きもせずに通り過ぎていきます。
アルタビジョンの音はいろいろな喧噪と一緒に新宿駅東口のビルの谷間に響いていました。
お菓子メーカーのデザイン室で働いている大介は、子ども向けのおかしを担当しています。
デザイン室では一番若い社員です。
年中「時間がない」とぼやいていました。
ほんとに最悪です。
毎週月曜日の会議で発表できるような新しいアイデアが、一向に思い浮かばないのです。
もう2年もの間。
『このままでは、クビになりそうだ! その前に自分から辞表を出して辞めてやる!』
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■アイデアを出すための時間が欲しい!
大介なりにいろいろ努力はしたんです。
「睡眠時間を減らすしかない」と、朝3時に目覚ましをかけたこともあります。
でも眠くてアイデアを考えるどころではありません。
なにより大切な月曜日の会議中に居眠りをして、さらにまずいことになってしまいました。
仮病を使って月曜日に休んだこともあります。
かぜのフリをして会社に電話したあと、「今日は、一日中たっぷり時間があるから大丈夫」
と油断しすぎたせいで、これも失敗。
そして会社からもらった1週間の夏休みも、とうとう何も思いつかないまま、終わってしまったのです。
今日は、その夏休み最後の日です。
大介は、月曜日の会議に行くのが怖くなってきて『ぼくはやめます』と書いた手紙を会社の上司の机に置いてくるつもりで新宿にきました。
つまり辞表です。
どうしよう!
新宿の街をブラブラ歩いているうちに急に弱気になってしまいました。
「ああ、もうダメだ。大地震がきて、会社も新宿も全部なくなってしまえばいいのに!」
そんなことまで考えてしまうありさまでした。
アイデアが出てくれればいいのですが、静かに考える時間もないのです。
そうです。
時間がないのです!
アイデアさえ出てくれれば、何の問題もないのですが、それができません。
大介には才能がないのでしょうか?
きっぱりと会社を辞めてしまえばいいのでしょうか、それとも逃げずに頑張った方がいいのでしょうか?
大介にはさっぱりわかりませんでした。
■思わず入った新宿・伊勢丹で謎のおじさんに・・・
キョロキョロしながら新宿通りを歩き続けていると、いつのまにかもう伊勢丹の前です。
会社は西口にあります。
引き返して、会社へ行き、上司の机の上に辞表を置いて帰ろうか?
どうしよう。
会社へ辞表を出す勇気のないまま、大介は伊勢丹のなかへ入っていきました。
なぜ伊勢丹のなかへ入ったのか、自分でもわかりません。
会社から逃げているのでしょうか?
無意識に伊勢丹のなかを歩いているだけでしょうか?
大介にはわかりません。
もしかしたら、何かに導かれるように、大介は動いているのかもしれません。
大介は『子ども階』の6階まで来ていました。
珍しい形のペンを手に取って見ていたら、
「おい!」と聞こえた気がしました。
大介が聞き耳をたてていると、壁から聞こえるその声は、
「はやく! はやくノックして!」と言ってきたのです。
気味が悪いと思いながら言われたとおりに壁をトントンすると、
信じられないことに、薄っぺらい体のおじさんが、よれよれしながら出てきました。
壁からおじさん?
紙でできた「紙おじさん」
そんなバカな!
でも、紙おじさんは、丁寧な態度で大介に話しかけます。
「いらっしゃい、何をお探しで?」
「何も探してなんかないよ」
「そんなことはないだろう? 私にはわかるよ
それは目に見えるものかい? それとも見えないものかい?」
そう聞かれて大介は、ハッとしました。
「新しいアイデアかな?」
「それはいけないな。自分で考えてこそのアイデアだろ?」
「たしかに。他の人のアイデアはもう自分のアイデアとは言えないからね。」
「じゃあ何だい?」
「そうだなぁ。アイデア以外でほしいものと言ったら. . . . 。時間?
そうだ、時間だ。いつも時間が足りないんです」
「わかった。じゃあ時間を売ってやろう」
「えっ? ほんとうに?」
「それで君の悩みがすべて解決すると言うんなら、おやすいごようさ。
これを試してみて気に入ったら、来週のこの時間、ここに来てみなさい」
そういって紙おじさんは、「時間」の入った袋を大介に手渡します。
「30分という時間がこの袋に入っている。この袋の口を開けて右耳にふりかければ、30分だけ時間が増えるはずだ」
■新宿・伊勢丹のカフェで思わず湧いてきたものとは?
おじさんから30分入りの袋を受け取った大介は、どきどきしながら『子ども階』にあるカフェに入りました。
注文したコーヒーを一口飲んだあと、おじさんに言われたように、
袋の口を開けて右耳の中にふりかけましたが....。
どんなに待っていても、何も起こりません。
『だまされたのかなぁ. . . . 』
残りのコーヒーを飲んで立ち上がろうとしたとき、大介は3回くらいぶるっとしました。
そして、あわててテーブルの上のナプキンに何か書き始めました。
久しぶりに人に話したくなるようなアイデアがわいてきたのです!
「よーし、明日の会議で発表するぞ!」
少しだけ自信を取り戻した大介は、辞表のことはすっかり忘れていました。
大介は時計を見ます。
カフェに入って、コーヒーを飲み、アイデアをナプキンに書くまでの時間がきっかり30分でした。
「なるほど、30分という時間が増えたおかけで、アイデアが浮かんできたんだな。これはスゴイや!」
大介はちょっぴり嬉しくなりました。
■新宿アルタビジョンで見たものとは?
大介は毎週日曜日の午後ここへ来て、ぺらぺらの紙おじさんから時間を買いました。
そして増えた時間でまた前のようにアイデアがわいてくるようになり、秋の新商品として、
大介の考えたお菓子が発売されることになったのです。
今日もいつもの時間、いつもの場所をノックすると、いつものようにぺらぺらの紙おじさんが出てきました。
「なんだか今日はうれしそうだね」
「わかりますか? おじさんのおかげで、ぼくのアイデアの新しいお菓子がやっと完成したんです。
お礼におじさんにも持ってきました」
「それはよかった。これで私も時間を売ったかいがあったというものだ」
「本当にありがとうございました。また今日もお願いします」
そう言って大介が代金の袋を渡そうとすると、ぺらぺらのおじさんはすまなさそうに言いました。
「申し訳ないが、もうこれ以上君に時間を売ることはできなくなったんだ。
明日から別の場所へ移るんでね。それに君ならもう私に頼らなくてもだいじょうぶだろう?
他にも私を待っているお客さんが大勢いるんだよ」
「残念だけど、そうですね。ぼくだけがおじさんを独り占めするわけにはいかないですから」
「それじゃあな」
「おじさんもお元気で」
紙おじさんとおわかれです。
さみしくてちょっと涙が出てきました。
紙おじさんは、スウッと壁のなかへ消えていきます。
いつもと変わらぬ伊勢丹の店内です。
大介は夢でも見ていたかのような感覚に襲われます。
『ああ、もう紙おじさんの力を借りることはできないんだなぁ』
大介はそう思いました。
自分1人で大丈夫だろうかという不安が5割、いやいや自分1人でやってやるという気概が3割、あとの2割は寂しいという感情です。
泣いても笑っても、これからは1人で生きていかなければいけないのです。
大介はゆっくりと歩きはじめました。
アルタの前に来たとき、ふと思い出します。
アルタビジョンに、大介のデザインしたお菓子のコマーシャルが、流れることになっているんです。
大介は、うれしくて泣きそうになりながらスクリーンを見つめていました。
するといたんです!
画面のはしっこから落ちそうになっているぺらぺらの紙おじさんが。
大介に向かって手を振っています。
大介も手を振り返しました。
おじさんは、ヒッチハイクをする人のように、何か書かれたダンボールを胸のあたりに持っています。
大介は見えるところまで画面に近づいて行きました。
〈気のせい〉と書かれてあります。
『何のことだろう?』
そう思っていると、おじさんが紙テープを投げてきました。
「これでほんとにお別れだ。元気でな!」
おじさんが消えたあと紙テープを見ると、それはおじさんからの手紙でした。
『大介くん
私が君に売っていたのは、〈気のせい〉という時間です。
君が時間がないと思っていたのも、時間が増えたと思っていたのも全部〈気のせい〉でした。
だから、この成功も私から買った時間で考えたのではなく、もともと君が持っていた時間でできたものなんです。
時間の他にも〈気のせい〉で起こることがたくさんあります。
何か困ったことがあったら、このことを思い出すといいよ!
気の精より』
ぼくは気の精から、〈気のせい〉を買っていたのか。
「わぁー、早くメモしなきゃ。またアイデアがわいてきた!」
(文・Shigemi)
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コメント
不思議な世界観で最後までひきつけられました。