先日、新宿の歌舞伎町のごみ箱に母親が生まれたばかりの赤ん坊を遺棄したという痛ましい事件が報道されました。
生活が豊かになっているはずなのにこういった幼い子供が虐待などで犠牲になるニュースが後を絶ちません。
日々新宿のグルメなど明るい情報を紹介しているこのページに似つかわしくない始まり方をしていますが、今回お話しするのは戦後間もない頃の新宿区で実際に起きた事件です。
■戦後の凶悪事件として名を遺す新宿・寿産院事件とは!
寿産院事件(ことぶきさんいんじけん)とは、1944年(昭和19年)4月から1948年(昭和23年)1月にかけて東京都新宿区で起こった嬰児大量殺人事件のこと。
被害者の数は103人というのが有力だが、正確な数は判明していない。
1948年1月、東京・新宿区柳町の「寿産院」で、100人以上のもらい子が死亡していたことが判明。経営する石川ミユキ(当時51歳)、猛(当時55歳)夫妻は配給品を受け取るために子どもをもらい、ろくに食事を与えていなかったという。
なぜ、このような痛ましい事件が起きてしまうのだろうか?
貧しさゆえか? それとも、悪鬼の仕業か?
豊かな飽食の時代にも、似たような事件は後を絶たないでいる。
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■事件発覚は警官のパトロール
時は戦後間もない1948年の1月12日。戦争に使われていた力はその爪痕から復旧することに向いていた。それでもまだ貧しい時代。みな生活がままならず、自分のことで精いっぱいであった。
早稲田署の警官AとBは新宿区弁天町あたりを警邏していた。適当に見回りを切り上げてさっさと暖かい署に戻りたいと思っていると突然Bが足を止めた。
「おい、あれを見ろ」
そう言ってBは道の先を指さした。
男だろうか。灯りもない暗闇の中、いくつもの箱を乗せた荷台を引いて歩いている。恐らくどこからか来た行商がこれから国へと帰っていくのだろうと思った。Aは、何の問題もない、寒い夜は早く戻って熱燗でも飲みたいと言おうとした矢先、
「おい! そこで何をしている!」
生真面目なBは声を上げて男へと駆け寄る。
ああ、また始まった。
Bは「真面目」という言葉に足が生えて歩いている。
こうなってしまっては先に署に戻るというわけにもいかない。
暖かな部屋に戻るのを諦めて、AはBの下へ行く。
荷台を運んでいた男の背はAやBより頭一つ分くらい小さい。腰の曲がり具合から見て、二回りくらいは年を取っているだろう。
「貴様、こんな時間に何を運んでいる」
Bの強い言葉に怯む様子もなく、男は
「へえ。荷物を運んでいやした」
「荷物? いったい何を運んでいたというんだ?」
「死体です。あっしは葬儀屋ですので」
「死体だと?」
思わぬ言葉が出てきてAとBは顔を見合わせた。
さすがに冗談だろうとAは思った。
きっとこの爺はこの辺りで盗みを働いた男に違いない。中身が死体だといえばきっと俺たちが中身を確認することなんかないとでも思っているのだろうか?
そんなわけがないだろう。
「中身を確認する。構わんな」
そういうと男は恭しく頭を下げて一歩引いた。
荷台に乗せられている農作物を入れるのに使われていたと思われる木製の箱だ。
大きさから考えてもとても人間が入っているようには思えない。
一番上にあった箱のふたを恐る恐る開けてみると中にはぎっしりと白い布が詰められていた。どうやらシャツやおむつの切れ端らしい。
無造作につかんで取り出そうとした時、布越しに何かの感触があった。明らかに布ではない。ゆっくりと切れ端を持ち上げ、灯りを近づけると布に埋もれるように突き出された手が見えた。
その大きさから見てもはっきりわかる。これは子供の手だ。くるまれた布をかき分けていくとやがて手の主が姿を見せた。赤子だ。
まだ生まれてから半年も経っていないだろう。
せっかくこの世に生を受けたというのに、生まれる時代が違わなければきっと今頃母親の腕の中で安らかに寝息を立てていたであろうに。
冷たくなった赤子を抱きかかえようとした時にふと違和感を覚えた。眠る赤子の脇に何かふくらみがある。
まさか。そんなことがあっていいのか?
震える手でさらに布を持ち上げると、2人目がいた。それだけではない。さらにかき分けていくと、まだいた。箱の中には合計4人の遺体が詰められていた。
どの子供も同じように薄汚れ、頬が痩せこけていた。
もはやAの胸の内には、赤子たちを粗末で暗い箱のなかに押し込めた畜生にも劣る所行をした鬼への怒りで爆発しそうだった。
「貴様! この赤子たちはどこから運んできた!」
鬼気迫るAの怒声に臆することなく葬儀屋と名乗る男が口を開いた。
「寿産院という産院です」
「寿産院だと?」
どこかで聞いたことがある名前のような気がする。
そうだ。思い出した。
確か柳町の辺りにそんな名前の病院があった。身寄りのない赤子を預かるということで新聞にも広告を出していた。
しかし、この赤子たちが病院から運び出されたのならここまで痩せこけるはずがない。
病院や孤児院には通常の配給品の他に砂糖やミルクといった特別な品が配られているはずだ。
そして、なぜ赤子をこのように、まるで隠れて捨てるような所行をする必要があるのか?
明らかに何かあるに違いない。
事件の可能性を疑ったAとBは男の身柄を拘束することにした。
しかしこの夜のことはまだこれから始まる地獄の序章に過ぎないということをAとBは想像すらしていなかった。
■事件は思わぬ方向へと展開していく!
署に連行した男の供述によると箱の中に詰められていた子供たちは寿参院からの依頼で運びだしたとのことで、これまでにも何度も運び出しているとのことだ。
子供たちの人数分埋葬許可証は添えられていたが、事件性があると判断した本部は男の身柄を拘束することにした。
日が昇ってからAとBは新宿区にあるK大学の大学病院に嬰児の遺体を運んだ。
死因を究明するために解剖する必要があるからだ。
昼を過ぎ、日も暮れようかという頃になって執刀を担当した医師が出てきた。
さすがに6人も検視するとなると疲れもだいぶあるようだ。
白髪の多い老医師はふらふらとした足取りで部屋から出てきた。
休ませてやりたいのは山々だがこちらも時間がない。
はやる気持ちを抑えながらも老医師に話を切り出した。
「どうです? 何かわかりましたか?」
「何かどころじゃないわい。いったいどこからあんなにわっぱを連れてきたのやら」
どっこいしょ、と言いながら医師は通路のベンチに腰を下ろした。
「あの子らの死因じゃが肺炎に凍死、窒息死と様々じゃな」
「肺炎に凍死?」
「ああ、おそらく栄養失調から来たところもあるだろう。胃の中を見たんじゃが食べ物を与えられた形跡がなかった」
「つまり食事を与えられなかった結果やせ衰え、衰弱死したということですか?」
かもしれんな、と言って老医師は白衣のポケットから煙草を取り出した。
火をつけて一息空に向かって吐き出すと再び言葉を続けた。
「しかもあの子らの体にはいくつも傷があった。恐らくは日常的に虐待を受けていたのじゃろう」
「じゃあ窒息死というのもその影響ということですか?」
「かもしれんな」
それを聞いてBは震える手を壁に思い切り殴りつけた。
「何ということだ! 抵抗もできない赤子に食事を与えないだけでなく虐待をするなど。 ただでさえ先の戦争のせいで多くの子供たちが犠牲になっているというのに!」
戦後の日本各地には親を失った多くの子供たちが路頭に迷い、その命を終わらせていた。
さらに戦後のベビーブームによって親がいたとしても経済的に育てられなかったり、母親が働きに出るといった事情から子供を手放さなければならないこともあった。
そういった子供たちの駆け込み寺ともいえるのがまさに今回は話に出た寿参院のような産院だ。
子供たちにとって最後の救いとなるはずの病院が子供たちの命を奪う場所になっているとは。
にわかに信じがたい。いや信じたくない事実だ。
だが連れて来た子供たちはそれを証明するのには十分すぎる証拠であった。
葬儀屋は、さらに、こんなことを言った。
「一昨年あたりから寿産院から20回以上も依頼を受けて運び出しました」
今回箱の中にいた嬰児の数は4人。つまり同じだけの数を一度に運んでいたとしたら100人以上の子供たちが寿産院で死んでいることになる。
そして、1月15日、産院の経営者夫婦を逮捕した。
■荒れ果てた産院の中で起きた異様な光景
経営者夫婦の女のほうは東京大学を出た産婆だった。牛込産婆会の会長を務めるほどの人物で、警視庁の巡査だった夫と二人で寿産院を経営していた。
二人の供述から寿産院で働いていた助産師も同様に逮捕された。
関係者の逮捕を受け、早稲田署にも寿産院への立ち入りの許可が下り、翌日強制捜査を行うこととなった。
1月16日。捜査部隊は問題の産院へと向かった。
寿産院は牛込柳町のとある一角にあった。
運良く戦争の魔の手からは逃れることができたのだろうが、木製の今にも崩れ落ちそうな建物は人の息を感じさせない。
そんな廃屋にも見える産院の周りには人がごった返していた。寿産院に子供を預けていた母親たちだ。
新聞の報道を見て子供たちが心配になり駆けつけてきたのだろう。
人ごみをかき分けながらAたちは寿産院の中へと入っていった。
産院の中は病院とは思えないほど荒れていた。障子やふすまは破け、ところどころ壁も崩れている。空気も埃っぽい。
それ以上にひどいのは匂いだ。汗や汚物、そして酸いた匂いはとても病院であっていい匂いではない。まるで家畜の小屋のようだ。
こんなところに赤子を置いていては本当に命が危ない。
「いたぞ!」
1人の捜査員の声を聞いて、皆がその部屋に集まる。
駆けつけてみると、床の上に無造作に置かれた竹かごの中に7人いた。皆身に着けているのは申し訳程度に着せられている薄手のシャツとおむつのみ。こんなものではとてもじゃないが寒さを凌げるはずがない。寒さと飢えで衰弱しきっているようで、泣く気力もなくぐったりとしている。
すぐさま連れ出そうとすると入口のほうからどたどたと走ってくる足音が聞こえてきた。
部屋へ飛び込んできたのはこの産院に子供を預けていたと思われる一人の女性だ。
年は二十を少し超えたくらいだろう。薄い着物のところどころは汚れやしわが目立つ。子供が見つかったという捜査員の声を聞いて中へ飛び込んできたのだった。
竹かごの中を見るなりふらふらとした足取りで近づき、一人の赤子を抱きかかえた。
「よしよし。おなかすいたでしょう。ほら、たんとお飲み」
母親の声に赤子はぐったりとしたまま全く反応を示さない。誰が見てももう手遅れだとわかる。
それでも母親は腕のなかの赤ん坊に乳を飲ませようとする。
目の前で起こっている光景をその場にいた全員がただ見届けるしかなかった。
■米櫃のなかから出てきたものとは?
捜査員の1人が母親を外に連れ出した後建物内の捜索が続けられた。
すると、大量の砂糖や粉ミルク、酒、そして着替えなどの品が出てきた。これらの品は産院へ支給されたり、母親が置いていったりした品だ。よくもまあこんなにため込んでいたものだ。しかし酒はいったいどこから流れてきたものなのだろうか。
押収した品をまとめつつ、引き続き捜索をつづけた。
「う、うわぁあああああああああああ!」
悲鳴にも似た声が奥のほうから聞こえてきた。
何事かと駆けつけると倉庫の捜索を担当していた捜査官が青い顔をして尻もちをついていた。
「どうした! 何があった!」
捜査官は震える手で部屋のすみの箱を指さす。
箱はどうやら米櫃らしい。先ほど開けられたからか蓋が半開きになっている。
中には丸っこかったり、棒状の白い塊が入っていた。一瞬何かわからなかった。いやわかろうとしなかったというのが正しいかもしれない。箱の中に入っているのは赤子の骨だった。
それも一人や二人の数じゃない。恐らく10人分以上は詰まっているだろう。
死んだ赤子たちを弔うことすらせずに、まるでごみのように箱に押し込んでこんな暗い部屋に押し込んでおく。
心のある人間が行えるようなことではない。いったいどうしたらこんな鬼のようなことができるのだろうか。
■望まれない子どもたち
取り調べをしていくうちに、寿産院の経営者夫婦は支給品を横流ししていたことは認めた。支給された食料品や酒を闇市に流していたのだ。また亡くなった子どもの親から葬儀代として500円を徴収していることもわかった。
しかし、依然として子殺しについては認めようとはしなかった。
「できることはすべてやった。そもそも運ばれてきた時点で命の危険があった子供も数多くいた」
と抗弁した。さらにはこんなことを言い出すのだった。
「それにうちみたいなことは他の産院でもやっている」
1つの病院から100人以上も子どもが死んでいるのに、なぜ周囲は気づかなかったのか?
役所の人間が買収されていたからかという憶測も飛ぶ。
避妊や堕胎が認められていないこの時代に望まれない子供はまさにいらない存在であるのだろう。未だに地方では子供の間引きが行われていた。
たばこが10本で数円という時代に3000円から5000円で子供を自らの手にかけることなく手放せる寿産院は望まない子どもがいた母親たちにとってはまさに地獄に仏だったのかもしれない。
だが預ければ子供がどうなっていくかは容易に想像できたことではあっただろう。
事実、寿産院に預けられた子どもの中には人身売買にかけられた子供もいた。
10月になり寿産院の関係者に判決が下った。
寿産院に残されていた帳簿によると200人以上が死亡したとされているが子どもの戸籍があいまいだったこと、そして殺人の証拠が不十分だったことから主犯である妻には懲役8年、夫は4年。いずれも軽い罪で済んだ。
これに対して世論が湧くかといえばそんなことはなかった。それどころか子供たちが犠牲になるのは仕方のないことだという意見が多かった。
寿産院で亡くなった子供たちはみな、牛込柳町にある宗圓寺で土葬された後、無縁塔として弔われた。
事件から70年が経過した今、寿産院があったと言われている場所は住宅地となっている。
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まとめ
以上が戦後直後の新宿で起きた寿産院事件のあらましです。
子どもたちが埋葬されたと言われている宗圓寺は都営大江戸線牛込柳町駅から外苑東通りを北に少し進んだところにあります。
筆者は、この記事を書き終えた後に訪れましたが、大通りがすぐ目の前にあるのにどこか静けさがある場所でした。
そして問題の寿産院があったと言われている場所は当時の面影はなく、どこにでもありそうな風景がありました。
寿産院事件から70年が経過した現代には当時のような貧しさはないはずですが、子どもの虐待などが後を絶ちません。
時代が悪いのか?
社会が悪いのか?
それとも親が悪いのか?
恐らく正解はないのでしょう。
ですがそういったものによって何の罪もない子どもの命が奪われるようなことは1日でも早く無くなってほしいものです。
(写真と文/鴉山翔一)
*参考文献
「あの事件を追いかけて」 アストラ社 大畑太郎 宮崎太郎
「日本猟奇・残酷事件簿」 扶桑社 合田一道+犯罪史研究会
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