新宿小説『キャットーク』

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新宿小説『キャットーク』

●早稲田大学 理工学術院で大発明!?

「あ~ぁ、おなかすいたなぁ~」
「研究室の入口の棚にサバがあるよ」
「え? どこって?」
「入口の下の棚。サバ缶の残り。お皿にラップしてあるでしょ?」
「たべていい?」
「もちろん!」
「やった!!」
言うが早いかリリィは机から飛び降り、入口までダッシュしていった。慣れた手つき、いや足つきで、器用に棚の引き戸を開ける。棚に頭を突っ込み、口でラップを外すとサバをムシャムシャ食べ始めた。

「やった。成功だわ。あとは再現性ね。欲を言えばもう少しコンパクトにしたいかなぁ~」
清澄小百合は実験の成功に喜びよりも安堵の表情を浮かべて呟いた。鷹羽教授の喜ぶ顔が目に浮かんだ。
あの端正な顔立ちをクシャクシャにして褒めてくれるのが小百合は好きだった。いや、小百合だけではなく研究生は全員、それを目当てに頑張っているといっても過言ではなかった。その光景を想像すると、つい顔がにやけてしまう。
「おいおい……」
サバを食べながら呆れたようにリリィが呟く。小百合は慌ててキャットークのスイッチを切った。
「翻訳:双方向、対象:リリィ」と表示されたインジケーターパネルが緩やかに光を失った。
「ミィ~」
ペルシャ猫特有の白くフサフサした毛並みを揺らしながら、リリィはまたサバを食べ始めた。

飼い猫が何て言っているのか知りたい。飼い猫と会話したい。
その思いから研究を始めたキャットーク。

猫の脳波パターンを分析して、その思考を解読する。解読したものを今度は人間の脳波に置き換える。さらにそれを電波化し対象者の脳に届ける。猫の思考パターンを解読するだけでも困難だと言われていたものを、小百合はリアルタイムで会話するところまで成し遂げた。

脳科学、超心理学、電子工学など幾つもの分野にまたがる研究は、教授達に嫌がられた。
「残念だが私の専門分野ではちょっと役に立てそうもないな」
担当教授になって欲しいと依頼に行く度に断られ続けた。
「学問を愚弄しているのか」とか

「正気の沙汰とは思えない」

「お嬢ちゃんのファンタジーにつき合っている暇はない」などと陰口を叩く教授すらいた。

教授ですらそんな調子である。大学院研究生の間で変人扱いされているのも無理のないことだった。

そんな中、鷹羽教授だけが名乗り出てくれた。
「僕では何の力にもなれず、ただ見守ることしかできないけれど……でも担当する教授がいないと論文が提出できないでしょ?」
頭を掻きながら照れくさそうに申し出た少年のような姿を、小百合は生涯忘れることはないだろうと思った。
その後、やや風向きが変わったのは鶴野舞が小百合を援護したのがきっかけだった。
舞は研究生の中でも才色兼備のリーダー的存在だった。

大学生の時にミス早稲田に輝き、実家は名家で資産家。なのに気取らず気さくな性格。

加えて大学の卒業論文が海外からも注目を集めた。これだけの条件が揃えば、必然的に学内で彼女をいらぬ者はいなかった。
「私は小百合のこと、凄いと思うな。出来そうなことを研究して何の意味があるの? 出来そうもないことを研究して成果を残すからこその科学だと思うけど。出来る訳ないと言われ続けてきた研究を諦めなかったおかげで今の世の中があるんじゃないの?」

舞の言葉に反論できる者は誰もいなかった。その日から、小百合を揶揄する者はいなくなった。少なくとも表面上は。

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●西早稲田キャンパスは大騒ぎ

ガチャリと研究室のドアが開き、舞が入ってきた。
「小百合、どう? 出口は見えそう?」
小百合の静かな微笑みを見て、舞は思わず息を飲んだ。
「まさか……実験は成功したの?」
こくりと頷いた小百合は、舞を拝むようなポーズをする。

「舞、お願い。実験に協力して欲しいの」
「え、何? どういうこと? 怖いのとか痛いのとかは嫌よ」

「ううん、そんなことじゃないの。そこに座ってるだけでいいのよ。あの猫と会話してみて欲しいの」
「あの……白い猫と? 会話ったって、何て言えばいいのよ?」

「舞はモテるから合コンとかよく誘われるでしょ? 話しかけたりするの得意なんじゃない?」
小百合はいいながらもキャットークを手際よく操作する。対象を舞とリリィにチューニングする。

「そりゃ合コンにはよく行くけど、どっちかって言うと自分から話しかけるより話しかけたのに答える方が多いし……」

「まったく、つぎからつぎへと、よくしゃべるわね」

「え!? 何これ? 頭の中に声がする。何これ?」
「なにこれって、あんたからはなしかけてきたんじゃない」
「ま、まさか……」
舞が震える指でリリィを指さす。

「ほかに、だれがいるっていうのよ」
「猫が……メス猫がしゃべってる……」
「たしかに、めすねこだけど。なんか、ばかにされてるきがするのよね。なめんなよ」
「なめ猫だ! リアルなめ猫だっ!!」

キャットークのスイッチを切った後も舞はしばらく放心状態だった。
ようやく息が整った舞はゆっくり小百合の方を向き直る。
「小百合、これ、私が思ってた以上だわ。小百合の説明を聞いて概略は理解してたつもりだったけど、これ、ハンパないわ。いや、凄いわ、これは」
「ニャンコとお話しできるなんて素敵だと思わない?」

「そ、そうね。たぶん喜ぶ人は多いんじゃないかしら。ただ……ね、小百合」
小百合はキョトンとした顔で舞を見つめる。

「まぁ、あらかじめ小百合に言ってなかった私も悪いんだけど……私、犬派なのよ。小さい頃、化け猫の映画をテレビで見ちゃってから猫は苦手なのよ」
一瞬の沈黙の後、研究室には二人の笑いが響いた。

「それ早く言ってよ」
「ごめん、ごめん。でも猫がこっちをじっと見ながら、頭の中に話しかけてくるんだよ? これって、もう化け猫そのものじゃない? あ! 今の翻訳しちゃだめよ」
二人の笑いは小百合のお腹がグゥ~と鳴ったことで一層加速した。

「ま、ともあれ実験自体は大成功なんだから。よかったじゃない」
「色んな人、色んな猫ちゃんを被険体にして、再現性を確立させなきゃいけないんだけどね」
「とりあえず腹が減ってはなんとやら、よ。今日はお祝い、私がおごっちゃうから食べに行こっ!!」
「え、悪いよ。……でも、そう? じゃ、お言葉に甘えて」
「お祝いと言えば?」
二人は声を合わせて言った。

「ビッグボーイ!!」

 

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●ビッグボーイで大俵ハンバーグを焼く! 手を焼く? 焼き餅を焼く!?

理工学術院のある西早稲田キャンパスから明治通りを一本挟んだところにあるハンバーグレストラン・ビッグボーイ。隣にドンキホーテやマクドナルドもあり使い勝手がいい。
普段はマクドナルドで本を読んだり、考え事をすることが多いのだが、ちょっとしたお祝い事やイベント的に少し豪華に行きたいときにはビッグボーイだった。
舞には内緒だが、このビッグボーイという響きが、照れくさそうに引き受けてくれた鷹羽教授の「少年のような大人」の姿と重なるところも小百合のお気に入りポイントだった。

「さ、ガッツリ食べちゃって! どうせ研究に夢中でまた昨日の晩から食べてなかったりするんでしょ?」
「ま、まあね」
「今日は私の奢り。こう見えても実家はお金持ちなのよ」
ケラケラ笑いながら舞は言う。普通なら嫌味になりそうな言葉も舞の口から出ると、小粋なジョークになるようだった。
「でも、やっぱり悪いよ」
「あんな実験しておいて、私の好意が受けられないってーの?」
「わかった、わかった。じゃあ……この炙り大俵ハンバーグと角切りステーキのセットにしちゃう。サラダバーだってつけちゃうんだから」
「そうこなくっちゃ!! 当然、大俵ハンバーグは200gの方よね?」
「うっ、も、もちろんよ」
タイミングよく通りがかった店員さんを呼びとめ、オーダーを伝ええる。

「舞はどうするの?」
「私は単品でドリンクバー」
「はぁ? ちょっと、待って。だったら私も……」
「オーダー、以上ですっ!!」
舞の張りのある声で注文は強制終了となった。

「ちょっと、舞……」
「違うのよ。実はさっき、ヒルトン東京の王朝でランチを食べてきたばっかりなのよ」
「え? あの中華の? 噂に聞いたことあるけど、確かランチで1万円くらいするんじゃ……」
「ま、私が払ったわけじゃないけどね」
「あ! そういうこと? 一人だけいい思いして!」
「だから浮いた昼食代を小百合のお祝いにしてあげてるでしょ!」
「えぇえぇ、私はかしこまったホテルより大俵ハンバーグの方が百倍好……」
嫌味を言いかけた小百合を舞が鋭く制する。

「え? なに?」
「ねぇ、小百合。小百合の後ろにいる壁際の男って知り合い?」
慌てて振り返ろうとする小百合を舞が止める。

「さりげなく。椅子の背もたれを気にするみたいな感じで振り返って、確認して」
言われたとおりにさりげなく振り返る。目の端に映った男には確かに見覚えがあった。確か……。
「ね、知り合い?」
「うん。同じ専攻の人。確か犬飼君って名前だったと思うけど」
「同じ専攻ってことは、鷹羽教授の? っていうか、小百合、数少ない同じ専攻の研究生の名前もちゃんと覚えてないの?」
「うん、ほら、私、はぐれメンタルだから」
メンタル的にイッちゃってるはぐれ者。小百合が影で呼ばれていた名だ。笑いながら語る小百合の姿は逆に痛々しく舞には映った。

「さっきから、ずぅーっと小百合のこと見てるよ、あの男。なんか睨んでるような、絡みつくような、粘っこい目で。気をつけなよ」

「何を?」

「ほら、ストーカーとか色々あるじゃない?」

「舞のことを見てるんじゃないの?」

「違うと思う。さっき一瞬目が合ったけど、全然悪びれる様子がなかったもん」
「なんで私が?」
「それはわからないけどさ。ああいう人達って何を考えてるかわからないからさ。単に挨拶をしただけなのに自分に好意があると思い込んだり」
「さすが」
「何がさすがよ。ホント、冗談じゃないからね」
「きっと気のせいだよ。そんなことより、サラダバーよ!!」

小さいボウル状の皿にレタスとキャベツの千切りをベースに、プチトマトの赤とコーンの黄色がまぶしい。白いサウザンドレッシングが更にその色合いを引き立てていた。
「私、ずっとサウザンド・ドレッシングって言うと思ってたら、サウザン・ドレッシングだったんだね」
そんな他愛もないことを言いながら小百合は席に戻ってきた。舞との楽しい会話が始まる。

「おや、プチ女子会?」
二人は顔を上げると、そこに鷹羽教授がいた。細身で長身のスタイルに秋を感じさせる白い薄手のニット。その上に羽織っている茶色のジャケットがとても似合っている。鷹羽教授は小百合と目が合うと眩しいほどの白い歯をちらっと見せて微笑んだ。反射的に小百合はうつむいた。顔が火照っているのが自分でもわかる。

「ドリンクバーとサラダバー? さすがオシャレ女子は僕らとは違うね」
「そ、そんな……」
言いかけた小百合に舞が悪戯っぽく言葉を重ねる。

「教授、イマドキ女子のデフォルトですよ。ね、小百合?」
「え? あの……え?」
「そんなもんかねぇ。ま、この2人にはこのメニューが似合ってるけどね」
教授の言葉を邪魔しないようなタイミングで店員さんがワゴンを押しながら、するっと入ってくる。

「おまたせしました。炙り大俵ハンバーグと角切りステーキのライスセットでございます」
「おや、結構ガッツリなんだね?」
鷹羽教授の言葉に小百合は耳たぶまで赤くなった。目の前で湯気を上げている鉄板よりも、小百合の顔の方がジューっという音が聞こえてきそうだった。舞がクスクス笑っていた。

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●コズミックスポーツセンターのプールで事件は起こった

明治通りをはさんで、ビッグボーイのほぼ真向かい。西早稲田キャンパスの隣にコズミックスポーツセンターはあった。新宿区民に混じって多くの学生が利用している。武道場や多目的広場、弓道場に大小の体育室まで備えているこの施設は今日も多くの学生がサークル活動に利用していた。小百合はここの地下1階にあるプールが好きだった。
ここのプールで泳いでいると頭の中が空っぽになる。するとその隙間を埋めるかのように新しいアイデアやひらめきが生まれた。キャットークの肝である猫の脳波解析によって思念を解読する理論を思いついたのも、そんな時だった。それ以来、小百合は行き詰ったり、嫌なことがあったりするとプールで泳ぐようになった。

「ちょっと、小百合。小百合ってそんなにストイックだっけ? いつもこんなに黙々と泳いでるの?」
10分泳いだだけですっかり息が上がった舞は、小百合がようやく一息つくのを待ってそう言った。

「一体、何km泳ぐつもりよ」
「え? 特に決めてないけど。すっきりするまで何となく泳いでるから」
「1時間ぶっ通しなんて、一体どこのアスリートよ」

「あ、待たせちゃったね。ごめん、ごめん」
実際、泳いでいるときは気持ちよかった。泳いでいる間は誰も小百合のことを笑ったり、蔑んだり、責めたりしなかった。水の中の静寂とプール館内の反響音を交互に聞いていると、しだいに心が透き通っていくのが自分でもわかる気がした。

「なに、これ……」
更衣室の扉を開けた舞は凍りついた。
「え、なに? どうし……」
小百合もその光景に立ち尽くした。
小百合のロッカーの扉は開かれ、スカートがズタズタに切り裂かれていた。持ってきたトートバッグの中味が床に散乱している。脱いだブラウスや下着までもが投げ捨てられていた。財布も口が開いたまま、バッグの脇に落ちている。特に荒らされていたのはクリアファイルとアイデアメモ帳だった。
「ひどい。なに、これ……」
なおも呟く舞の横をすり抜けて、小百合は散乱した荷物に駆け寄った。慌てて、クリアファイルとアイデア帳を1ページずつチェックする。
「小百合、こっちこっち」
舞が慌てて下着やスカートなどを片付ける。
「別に何も取られてない」
財布まで確認した小百合は気が抜けたように呟いた。
「何が目的なんだろう。変質者の考えることはわからないわね。あ、まさか……」
小百合は何かを考え込んでいる。
「ほら、小百合。さっきの男よ。え……と、犬塚だっけ?」
「犬飼君?」
「あの男よ。やっぱりストーカーだったんだわ。しかもスカートをこんなにして」
「私はよくわかんないんけど、ストーカーってノートや資料も荒らすものなの?」
「さぁ。わからないけど、小百合のことを何でも知りたかったんじゃないの?」
「……ま、ここに書かれているものだけじゃ、どうにも出来ないと思うけど」
またしばらく考え込んだ小百合は、ぽつりと呟いた。
「ねぇ小百合、このスカートどうするの。あ、私、ドンキに行って、何か買ってくる。ホントは新宿南口のZARAか3丁目の丸井か伊勢丹あたりに行きたいところだけど、早い方がいいもんね。あぁ、せめてユニクロがあればなぁ。ドンキになる前はユニクロだったのに。ま、私、行ってくるわ。小百合、悪いんだけどちょっと待ってて。泳いでてもいいし」
「舞、ごめんね。ありがとう」
「ホント、許せないよね。これ、警察とかに絶対行ったほうがいいよ」

 

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●ターリーズコーヒーで逡巡、悶絶、そしてヒラメキ

理工学術院のある西早稲田キャンパスを横目に眺めながら、小百合はコーヒーを飲んでいた。ターリーズコーヒーのグランデは残すところ、あと2口となっていた。今日のコーヒーはいつにも増して苦い気がした。明治通りを走る車にそろそろライトが灯り始めていた。
警察に行ったほうがいい、舞は言った。きっとそうなんだろう。何も盗まれてはいなかったが、荷物を荒らされただけでも犯罪になるんだろう。でも……。でも、小百合はそんな気分にはならなかった。正確に言うと、そんな気力すらなかった。

数時間前に実験を成功させたときの喜びはとっくにどこかへ消えていた。
実験……か。こんな時こそ、リリィとお話して癒してもらうのが良いのだろう。頭ではわかっているけど、身体はここから動こうとしなかった。

さっきから更衣室の光景を思い浮かべては消し、引きずられるように連なって現れる研究生の嘲笑や蔑みの顔を消すのに必死だった。舞を思い浮かべる。舞の笑顔、凍りついた顔。そしてロッカーの光景。嘲笑と軽蔑。追い払うようにリリィを思い起こす。リリィとの会話。舞の驚いた顔。凍りついた顔。ロッカーの光景。嘲笑と軽蔑……。

気がつくとコーヒーばかりが減り、ため息ばかりが増えていた。外は夕暮れ、小百合は途方に暮れていた。
「実験……か」

小百合はまた呟いた。そうだ、実験結果を教授に報告しなければ。鷹羽教授のことを思い浮かべると心に立ち込めていた靄がすぅ~っと薄れていくのがわかった。少し鼓動が早くなる。身体に体温が戻ってきたような気がした。
鷹羽教授は小百合によく微笑んでくれた。でも……。とたんに小百合は不安になる。
私のことをどう思ってるんだろう?
さゆりはブンブンと頭を振る。

何をバカな事を考えているのだ。なんとも思ってないに決まっているじゃないか。単に教授と研究生。はぐれメンタルと陰口を叩かれている私を拾ってくれただけでも感謝しなくちゃいけないのに、これ以上何を期待しているのだ。
でも……と、ふと思う。そんな私をどうして拾おうという気になったのだろう。もしかして……。
淡い期待が頭をもたげる。

「鷹羽教授か……どう思ってるんだろ、私のこと」
小声で呟いた声が小百合の耳に届いたとき、何かのたがが外れた。もう確かめずにはいられなかった。研究者だからなのだろうか。一度気になると、もうどうにも我慢が出来なかった。
「とは言ってもなぁ。直接聞くなんて私には出来ないし」
残り1口になったコーヒーをぐいっと飲み干した。
あれ? ちょっと待って。教授の気持ちがわかればいいのよね? これって人間の思念を人間に伝えるってことよね? トランスレートしない分、猫より簡単じゃない?
小百合は夢中になってアイデア帳に書きなぐった。時折、資料を確認しながら、うんうんと頷き、何かに取り憑かれた様に書きなぐった。
パシンとペンを机に置くと、いままでの無気力が嘘のように手早くグランデのカップとトレイを片付け、小百合は足早に研究室に向かって駆け出した。

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●戸山公園で猫なく、ほどなく、私なく

鷹羽教授の研究室の扉がいつもより大きく重く見えた。やけに鼓動が早かった。手のひらにじんわりと汗が滲む。
小刻みに震える手でバッグからキャットークを取り出す。アウトプットを自分にチューニングし、プリセット。設定を双方向からワンウェイに切り替える。
コンコンとドアをノックする。
「どうぞー」
いつもの明るく澄んだ鷹羽教授の声が聞こえてきた。ノブを回す。ドアがいつもより確実に重い。

「あぁ、清澄さんか。どうしたの?」

「さきほど、実験したら成功しました。それでその報告に」
「え? 成功したって……猫と会話できたのか?」

「はい、念のために舞にも研究に協力してもらって。舞でも成功しました。もっと色んな猫、色んな人間で再現性を確立させなければいけないとは思いますが……」

「それが、その機械? これで猫と喋れるの?」

「これは実験用のプロトタイプですので、これですぐに猫と喋れるわけではないのですが、少し手直しすれば」

「すごいじゃないか。君のほかにも被験者が成功したの?」

「はい、先生もご存知じゃないですか? あの学内の有名人、鶴野舞です」

「あ、あぁ。鶴野さんね。へぇ、彼女がねぇ。彼女は確かに有名人だよね。そうか、実験成功か」
そっと目の前のキャットークにスイッチを入れる。ブォンと微かな機械音を立てて、キャットークが起動する。

「こちらでターゲットの猫ちゃんにチューニングしてロックオンするんです。そしてインプットからアウトプットに回線を繋ぐんです」
絶命しながら小百合は目の前の鷹羽教授にチューニングしてロックする。アウトプットが自分になっていることを確認し、回線を繋ぐ。
どっと鷹羽教授の思念が小百合の中に流れ込んでくる。その思念は想像以上の濁流となって小百合を襲った。
さゆりの両目から涙が流れ出した。
「ど、どうしたの?」
鷹羽教授が爽やかに心配している。

少しでも気を抜くと自我が思念の渦に飲み込まれそうになる。自分が自分でいられなくなる恐怖に歯を食いしばって耐えた。濁流に流されそうになる中、必死に踏ん張ってキャットークのスイッチを切る。
「大丈夫?」
「ええ。あ、はい、すみません」
「どうしたの? 何かあったの?」
「何でもありません。すみません、本当にすみません」
「え? 何が? 失敗だったってこと? ちょっと説明し……」
教授の言葉を最後まで聞かずに小百合は走り出した。自分の研究室へと続く廊下を走りながらも両目から涙が途切れることはなかった。
何をすべきなのか? 何をした方がいいのか? 何をしてはいけないのか?
全てがわからなくなったまま、気がつくと研究室でキャットークを元の配線に戻していた。小百合はリリィを連れて外に出た。

恨めしいくらいに月が明るかった。
月明かりに照らされた戸山公園は昼の顔とは違って見えた。昼があり、夜がある。光があり、影がある。そんなことはとうの昔からわかっていたはずだった。わかっていたつもりだった。
小百合はため息をつくと、キャットークのスイッチを入れた。
「どうしたの、さゆり? いつものさゆりらし……」
話し始めてリリィは沈黙した。小百合の思念がリリィの中に濁流のように流れこむ。

「そう。そんなことが……。にんげんって、たいへんなおもいをしていきてるのね」
リリィはそう一言、言った。

小百合が猫と話す幸せな風景。その映像はあっという間に細かく引きちぎられた。
学長から呼び出されての会話。
「鷹羽君、その論文は大丈夫なんだろうな」

「まもなく書きあがります。私が書いた論文は脳科学界だけでなく学会全体を激震させますよ」
鷹羽教授が大手ペット用品メーカーから受けている接待。
「是非、製品化には当社独占契約でお願いしますよ」

「もちろんです。もっとも条件が合えばという前提はありますけどね」

「怖いな、教授は」
犬飼を叱り付ける鷹羽。

「はい、研究室にも。いつも持ち歩くバッグの中にもありませんでした。もちろんクリアファイルから財布の中まで探しました」

「絶対にどこかにデータを保存してあるはずなんだ。なんとしてでも探し出せ。私の人生がかかってるんだぞ」
鷹羽に向かい詰め寄る鶴野。

「ちょっと、小百合に入れ込みすぎなんじゃないの」

「そんなことはないよ。単に指導教授として」

「うそ。他の研究生に対する態度と明らかに違うじゃない。もしそうなら、私はこの事実を明るみにするわ。有望教授の不倫。しかも相手は元ミス早稲田。最高のネタだと思わない?」

「そんなことをしたら、君だって」

「そうなったら私はどうなってもいい。私は本気よ。小百合も絶対に許さない」

「そう。そんなことが……。にんげんって、たいへんなおもいをしていきてるのね」
リリィにはその一言しか言いようがなかった。

小百合は声にならない悲鳴を叫びながらキャットークを両手で振り上げた。

月明かりが呑気な影絵をコンクリートに映し出していた。
次の瞬間、鈍い金属音が響き渡った。誰もいない深夜の戸山公園は、その金属音を即座に飲み込んだ。
小百合はその場にへたり込み、月を見上げて泣いていた。
「ミャ~~」
リリィがか細くなき、小百合の頬に伝う涙を優しく舐めた。

 

(写真と文/元さん)

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